いい気なもの

今年も世界最大の自転車レース、ツール・ド・フランスからドーピング陽性判定で退場者が出た。
この数年取り締まる側の牽制や見せしめの為とも思われる著名人の大々的な陽性反応公表が行われてきたにも拘らず、まだこのレースから出てくるとは正直思わなかった。
しかし本当にその判定は正しいのだろうか?
科学的な根拠は当然あるのだろうがその判定自体に果たして絶対的な信頼性があるのかという疑問も出てくる。
そしてその判定基準にも世の中の誰かが勝手に決めた相対的な基準があるだけで、絶対的な基準は存在しているのだろうか?

選手達は自分達のこれまでの経験からドーピング基準に照らし合わせた何かしらを取捨選択しながら「生活」している。
その基準が見つからない事が続くとレースで引っかかなければ良かったり、巧く見つからなければ良かったりというものになる。
病気の人が薬を使い続ける事は元々はその人が持つ能力以上のものを発揮する事にはならないのだろうか?
それを良しとする管理者側は、結果、選手を差別化し本来生きる事や競技本来の能力が他人以上に優れた人を奈落の底に突き落としている事にはならないのだろうか?
それが公平と言えるかどうかは甚だ疑問の残る所だ。

またそれ以上に疑問の残るモノはそういった事柄をまるで自分が鬼の首を取った様にインターネットや雑誌、所謂マスコミの世界で血祭りに上げてしまう人達。
かれらにドーピングに手を染めてしまう選手達の何が解るのか?
自転車先進国と言われる国の人達の活躍を、へらへらとその成績や容姿や表面的な事で活躍している時にはすごい素晴らしいとあげつらい、一旦陽性反応が出るとあのインタビューが彼との最後だったなどと書いてしまう。
その人に取っては自転車などというものは人生のほんの一部分なのだ。

他人の力を使い、自らはそれをどう虚飾すれば良いかを考えるだけの方々はそろそろ大人しく黙っていてもらいたい。
彼らがしている事を代わりにできる、もっと情熱を持った人は本当に沢山居るのだ。
いい気になってこれまで通りに表面だけ取り上げてもらっても変わるものも変わらないのだ。
自転車だけでなく本来のスポーツを考えヒトというものを考えてマスコミという重大な仕事に携わってもらいたい。
あなた方が取り上げるヒトやモノの今後を決めてしまう事だって有るのです。